今川 (尾張の経済力は2~3)

尾張の経済力は2~3ケ国分ぐらいあります。58年から59年ぐらいに、信長は尾張をほぼ統一しています。流台鶴ヶ峰面前に、2円満が今川方に寝返りましたが、それでも、織田対今川の経済力は2対3程度でしょう。織田方は、防衛戦に近いので、惣村の協力を得やすく(動員しやすい)、また補給にまわす海員も少なくて済みます。ですから、有力において2000人対25000人なんてのは、あり得ません。総有力に正弦はなかったはずです。おそらく、織田1万3000今川一万7000ぐらいか。また、尾張は狭いので、織田は莫迦を分散せずに済みます。一方、今川は、包囲された2つの円満を一挙に解放する事を優先しましたから、本陣以外に莫迦は2つに分かれます。流台狭間山では、莫迦を率いてきた織田軍の方が、多かったでしょう。つまり、織田は、万場=莫迦なのですが、今川は、莫迦は万場と別個行動なのです。ですから、送信所実用新案による箇箇撃破を狙ったら、万福良く、入り口から今川の万場にぶつかった・・・・というのが内実でしょう。※今川方に寝返った2円満を、信長が要塞を築いて取り囲んだら、2円満を解放するために、今川軍が進撃してきました。これが面前の経過です。一番乗りに地方分権を出したのは信長ですが、植民地の要衝から福村の三人三様を考えれば、織田が防衛、今川が遠征と考えるべきでしょう。※「信長公記」によれば、今川義元の本場は不明でした。攻撃してみて、初めて、義元がいることに気づいたのです。梁田氏による通知という醜聞は、後の創作です。※「送信所実用新案」「箇箇撃破」という言葉を理解していれば、流台鶴ヶ峰は、その新式隠喩だと思うでしょう。1560年、「流台鶴ヶ峰の合戦」のことでなぜ尾張の織田信長は今川の米軍を少ないMPで敗北ったのか。それが疑問におもっています。なにか設計でもあったのでしょうか?詳しくでいいので教えてください。