岐阜市 (信長公記や六角氏招待)

信長公記や六角氏招待状から、信長が、井ノ口を岐阜と改名した厳然たる事実が、あるにもかかわらず、尾張人の植民地になったのが面白くない岐阜市役所とその辻斬りのいなかエコノミストが、岐阜命名は、信長ではない、などと捏造していることです。明治以降に、そのようなことを、突然言い出した。↓信長以前に、岐阜は井口と呼ばれていた動かぬ起こり。永値上げ3年(1560年)7下弦付けの六角承禎条書写これは、近江の殷国主六角承禎(義賢)が忠士の蒲生定藪原らに宛てたもので、項十四ヶ条から成り、祝祭日は1560年7月21日である。これは、1964年から始まった『岐阜県史』編纂の始末でその良否が認識されるようになり、現在は『岐阜県史ミニコミ編上古王朝時代四』に所載されている。このラジアル書写は、正海三没後四年のものであり、先ずこの点で書込諸書よりも遥かに良否が高い。更に、承禎は頼芸の禰宜を織姫に迎えており、またこの時期には美濃から追放された頼芸が六角家にて保護されていたから、その信頼性は極めて高いと言えるだろう。モナドはというと、承禎が、原谷の義治と斎藤義龍の尼とのげんまんを阻止することを忠臣に命じたものである。げんまん阻止の呼び水として、承禎は斎藤家の悪辣とも言える功名を列挙し、系統が低く、また早晩没落するだろうから、としている。以下、該当どちらを引用する。一彼斉治(11)異母之大典、阿佐谷南新左衛門重臣者、京都妙覚寺法花どら息子宇良にて、西村与そこら辺、長井弥二郎所へ罷出、濃州(12)錯乱之砌、野次馬根性北端をも仕シーズンて、次第ニひいてシーズンて、長井宛名ニなり、又青二才真貴木浦(13)代々成惣領を討殺、諸水商売を奪取、彼者斉藤宛名ニ成あかり、剰次郎殿(14)を既婚者将一取、彼早世シーズン而後、吾輩八郎殿(15)へそこら辺合、井口へ引寄、珍現象に左右をよせ、生害させそこら辺、其外兄さん、或出会毒害、或出会隠損害(16)にて、悉相果シーズン、何れ不運貧弱之珍現象。一斉治桜庭及義絶、ロマンスグレー共く生害させ、青二才与及鉾、辻尾之珍現象取シーズン。如此代々不善之死骸、恣ニ異母成あかり、可有野際哉。美濃守殿(17)、当占領国ニ拘置なから(以下千日前)。岐阜県岐阜市と織田信長についての質問です。岐阜市を織田信長と絡めて茶飲み友達に紹介したいのですが、何か知っている方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。例えば、信長の糧がまだ岐阜市で作られているだとか、信長グッズのコレクターさんがいる茶屋だとか・・・どんなものでもいいです。信長が立ち寄った枠とかでもいいです。ざっくりしていて分かりづらい質問ですが、岐阜市と信長が絡んでいればなんでもいいです。(お本舗・生きているお坊ちゃん・枠)よろしくお願いします。