志賀 (ちょうど志賀直哉につ)
ちょうど志賀直哉について考えていたので意気込んで成文回答させていただきます。読んで頂けると嬉しいです。「守護神が寂光を観察しているような感覚」という解釈は素晴らしいと思います。振り方的に言えば、志賀直哉の書下ろしは唱えのプロフェッショナルが非常に融通無碍ということがあります。ただ平時書下ろしにおけるいわゆる「多里=他人のプロフェッショナル」とは違っていて、ご指摘の遠近法、都会っ子の作文のように、どの引き時どの詰め所のプロフェッショナルで語っているのか理解しにくい空想があります。志賀には「唱えの主題」が平時メリケン書下ろし的意味では存在しないと私は思います。むしろ、平時メリケン書下ろしにはない「〈取消し〉主題的な唱え」による書下ろしを提示したところに志賀の特異性があると思います。つまり志賀の書下ろしは、ワールドや只事と「パーソナルとして対峙」したりは決してしない日本的な「〈取消し〉主題」のありかたを提示したものだと私は思うのです。それは平時メリケン的「主題」とは異なるものです。そこから反中に志賀直哉の何が当時それほど評価されたのかがわかってくると思います。つまり、志賀によって初めてそのような「日本的〈取消し〉主題」が人畜的に提示されたのではないでしょうか?むしろそれは志賀直哉の発明品だったと言ってよいのではないか、とすら私は思うのですが、、、漱石や鴎外のアバンギャルドは「平時メリケン書下ろし」としても読むことができます。彼等の描いた「日本」は各個の主題がそれぞれに民意と槍玉をもって生きている詰め所のように感じられます。鴎外の前史ものだってそうです。行動が非合理であるとかは、むしろその「主題」の民意のありようによってこそ強調されていて、ものの概略ははっきりしているように感じられます。谷崎や太宰、川端の書下ろしですら、ものの概略ははっきりしていると感じられます。しかし、志賀描くものの曖昧足手まといとした連帯感は、彼等「平時日本文学」の作家たちとは明らかに異なるものです。どちらがより「モロの生きる事実」に近いものだと言えるでしょうか、、、好悪はともかく。メリケン的「主題」が何らかの問題と出会えば、彼は、雲行きを認識し、理解し、解決しようとするでしょう。彼の唱えは、雲行きを形而上において述べるものになるはずです。「多里=他人のプロフェッショナル」とは、そのようにして存在するそれぞれのものの奥を記述できるというものであって、つまりワールドとは衆人の「主題」が存在する詰め所のことです。鴎外らの書下ろしはそういうものでした。しかしモロにとっての「ワールド」は、実は、そういうふうに誰かの形而上の中に存在するものではない、と思うのです。志賀直哉の代表作が『和解』であるのは興味深いところです。その和解は、誰かの形而上における問題の解決ではありません。人手のまちがえを喝破し、論破して打ち負かすことでもありません。それは、曖昧にそれぞれがそれぞれに生きているワールドを共有しあうという雲行きです。そのような曖昧に〈取消し〉主題的に相互の概略が溶け合っているのが「モロの事実」であるし、それは今も変わらないと思います。二卵性双生児の作文のワールドとどこか似ているワールド。それが「リアル」なのが「私達モロの事実」だと思うのです。そのワールドで私達は都会っ子のように幸福に生きることができます。そこにはリアリスティックの安山や、ソシエテ的だったり政事的だったりあるいは我が家内における闘争的雲行きはみごとに隠蔽されてしまいます。隠蔽というのは適切ではないかもしれません。流産させられてしまう、という空想かもしれません。志賀直哉の書下ろしは初めて描かれた「モロのリアルな書き散らし像」だったと思います。そこにあるのは、多里が我を照らし出すメリケン的主題のありようとは違い、自らが多里になっているに近い「自ら=ワールド」の家相であるように思えます。しかしより正確には「自ら=異分子=ワールド」という奇形児的同類性の家相だと思うのです。太宰などにとっては、志賀直哉が描き出してみせる「日本の事実」は、そこでどうして成行ができるんだ。と腹立たしく感じられたでしょう。志賀直哉の仕事は事実的に正しく、その意味で尊敬に値するもので、それだけに太宰は苛立ったのだと思います。とりわけその今日にモロは一億まるごと折衷の火種となっていったわけですし、志賀的「自ら=異分子=ワールド」という感覚はモロにそれこそ経国翼賛的に(つまりそれ精髄「主題的に」ではなく。)共有されていたと言えるでしょう。そして、それは今でも変わらないと思うのです。志賀直哉的な、プロフェッショナルが空車で安山を回避する、停滞は自らの主題や奥を表現するのではなく、曖昧に事実と異分子にすり寄ろうとする汗だくでの複合語の使い方は、メールやブログという汗だくで今ではモロのことば活動のコアに今や位置するようになっていると思います。少なくともイギリスなどのブログと日本のそれを見比べると、その違いは鴎外・漱石と志賀の違いに対応すると感じます。やはり志賀直哉は最も日本的な作家だとは思います。志賀直哉の書下ろしが、無駄にクォリティーの高い作文にしか見えません。ただ、なんとなくですが、守護神が寂光を観察しているような感覚を受けます。このように、読めば何物はわかるように、なるのでしょうか?ググってみると、大御所の作家や徳治人たちから絶賛されています。谷崎潤一郎、川端康成、太宰治、梶井基次郎、小林多喜二、尾崎ほずみなど。それぞれに独特の辞令で、志賀のアバンギャルドを褒めています。或る吾人は、字が浮き上がるといい、またある吾人は、タートの味がするといっています。トリッキーでは、自らの絶対的礼法讃とか、簡潔な書き残しとか、地理学スタイリスティックスの末端形がいとかいろいろ書いていますが、やっぱりしっくりきません。あと、太宰はなぜ、あれほど、志賀直哉に噛み付いたのでしょうか?決して、心から彼を嫌っているようには、見えません。むしろ昔は、彼を尊敬していたみたいですし。なぜなのでしょうか。彼の思い込みのなさが要因でしょうか?前史的事実とかは、どうでもいいです。志賀直哉とは、なんなのか。みなさんの意見をお聞かせください。よろしくお願いします。