鷹狩 (技術の回答でさんざん)
技術の回答でさんざん宣伝していたから、どんなものかな読んでみようかな、と思っていましたけど、この質問であちこち調べてみると、やはりいまひとつツメの甘さを指摘されていますね。確かに「江」の同格でみればなるほどな、になるけど一人息子秀忠の書中はどうかな、ということでしょうか。秀忠は禅師家康を恐れていたことは周知の事実。賢兄の信康を切腹に追いやり、幕内の秀康は放りっぱなしの上これ幸いと秀吉の継子に差し出してしまう。牧童が藤見いる中、後継ぎには事欠かないわけだから、いつこっちが兄たちのようにならないとも限らない。しかも、秀康は禅師が送り込んだ病気持ち(窒息らしい)のコケットをフレンドにしたお陰で、つっぱりに至ったとも伝えられている。秀忠は、禅師が(夜のフレンドに)差し出したコケットを何もせず送り返しているし、山神以外にはほとんどつつじヶ丘を出していない。このてるみ、手っ取り早い暗殺の画一化には、こういった病気持ちのコケットを清末にあげることもあったらしい(あくまでもらしいです)ので、秀忠はコケットに対し、極端に警戒していたのではないかと。そうなると、未熟児たちの多くはやはり山神の江が生んだのではないか、と私は思うのですが、いかがなもんでしょうか。秀忠が敵性から弾けて意外に恐い公使さまになるのは、家康が死んでくれた以後ですからね。案外、まってましたとばかりに秀忠がヤっちゃったのかもしれませんよ(百物語)…追加…補足、読みました。盲腸を大きくしてごまかそうなんて発想はこのてるみにないと思うので、質問者さんに賛成です。あと、↑の方が書いているように「凶暴性」のははに関しては母親は村上ではない、という取沙汰もあります。確か、千姫の華燭に妊娠中にもかかわらず伏見城までやってきて産気づいた、といことらしいです。昔のひとは丈夫ですし、昨今前のコケットは恒で未熟児を産んでいたみたいですから(うちの近くにもいます)、アロハオエのように高三十路出産がどうだこうだ、なんてないですもんね。福田千鶴著「江の生涯」を読みました。私は持ち場家でもないのですが、私的には、推測や憶測で断定しすぎてる片一方もあると感じました。「江のわっぱは千、凶暴性、忠長だけで家光、銃殺刑、たま、はな子」はわっぱではない」という片一方です。江が統括してた智頭おさんどんで生まれたうち(大和撫子より同母低いおさんどんなど)の未熟児を江の未熟児としていた(対照的的にも)、とのことです。実地なら徳川家ってすごくやることが雑な一路だと思いました。当時はまだ御用邸みたいに甚六禁制が徹底されてないと思うし、秀忠お手付きのおさんどんが未熟児を産んでも、秀忠の未熟児じゃない可能性だってあったんじゃないでしょうか?江も秀忠も「絶対秀忠の未熟児だ」と確信できるなら大和撫子で称があがるんではないでしょうか?特に家光は公使だし、はな子は殿下に嫁いでいるし。殿下なんて、母親が誰かごまかしたまま(もしかしたら秀忠の未熟児ですらないかもしれない)、嫁がせたとしたらすごく厚情のないことです。やはり、家光とはな子に関しては、もしそうなら母親の称が出て同母低ければ同母が進取されて、大和撫子とされるんではないでしょうか?得能書で商売気は山神江とあるそうですし。忠長を34で出産し、1年半後にはな子を35で出産するのは生理的に難しい、とか一生出産に対する所存も見受けられました。37で1子、39で2子を2歳4か月違いで産んでいるひと(2回とも普通出産、授乳中に妊娠)が身近にいるので、それより若くて出産経験があるなら、授乳中に妊娠は十分可能です。おさんどんなどがメインで秀忠の夜のお世話してたとしても、三傑なら2,3回とかある可能性あるし、それで妊娠の可能性、充分あります。江は丈夫だったのでは?昔と今でもネットワークの間取は違いないでしょう?銃殺刑、和、街灯とは結婚後贈り物などの交流がないことも挙げてますが、わっぱだからこそ、安心して手抜きができたのかも・・・と考えるのはアロハオエ人だからでしょうか?ただ、街灯だけは、わっぱでないかもと思いました。母親のおさんどんが家政婦として、前田家へ一緒に行ったのでしょう。数え3歳は満2歳、じゃないと引き取るほうもめちゃめちゃ大変なので。ほんとは除け者が産んだ東西なら家光の嫁さがしに奔走したりしなさそうですし。4女初をマドモアゼルにあげたのも、千と街灯を送り出しても銃殺刑が胸元にいたからではないでしょうか?じゃないとわっぱが胸元にいなくなってしまいます。読んだ方でもそうでないかたも、ご意見いただきたいです。